やさぐれたコメンテーター(自我)と静かな心
今回の溝口あゆかさんのブログは、個の自分(自我)は、良い自分(人から受け入れられる、愛される等)でいたいために、自分の中に『コメンテーター』という監視人を作るというお話でした。
やさぐれたコメンテーター(笑)。
あまりにもあるあるなので、笑ってしまいました。
確かに嫌われる振る舞い、しらないうちにやってるかもしれない。
人の目、めちゃくちゃ気にしてますね。私の中のコメンテーターは、やさぐれているので(笑)、“どう振舞っても好かれないし、だったら距離をおくことにしよう”と、コメントしてきます。
こういうことに気づいていくことが、大事ですよね。
やさぐれてるコメンテーター(笑)も、頑張っている私も現実の私ですが、そもそもオギャーと生まれてから、本当の愛を知らないで育っているし(親もそういう中で育っている)、学校時代は、さんざん対人関係で苦労してるので、こうなるのもやむを得ないとは思うのです。
まわりの目を気にするのも、自我のしくみかなと思います。
ついつい自我をイコール自分だと思いがちだけど、見つめていると(気づきの意識)、心の中にスペースが出来て、心がすごく静かになる瞬間が出てきます。
コメンテーターが静かになっているんですよね。
案外、気づきというのは、身近な感覚なのかもしれないですね。
「私という自己はいない」。前回の続きです。しかし、当然私たちは「(個)の自分がいる感覚」が満々にあります。 そ…
または、やさぐれたコメンテーターなどは、“どうせ誰もあなたのことなんか好きじゃないんだから、ふてくされちゃえ”、“どうせ嫌われるんだから、その前にみんなを嫌ってやれ!”、“嫌われる自分なら知っているから、嫌われる振る舞いをわざとしちゃえば?”といったコメントもしてきます。
やさぐれたコメンテーター(笑)。
あまりにもあるあるなので、笑ってしまいました。
確かに嫌われる振る舞い、しらないうちにやってるかもしれない。
さて、このコメンテーターは自分だけではなく、周囲も監視しています。つまり人の目を気にしているのです。人からどうやって見られているか?は、自分という所有物を良くするために非常に大切です。
人の目、めちゃくちゃ気にしてますね。私の中のコメンテーターは、やさぐれているので(笑)、“どう振舞っても好かれないし、だったら距離をおくことにしよう”と、コメントしてきます。
さて、話は一番最初に戻り、そもそも頑張っている私もコメンテーターの私もいないのなら、一体ここで何が起きているのでしょうか?
こういうことに気づいていくことが、大事ですよね。
やさぐれてるコメンテーター(笑)も、頑張っている私も現実の私ですが、そもそもオギャーと生まれてから、本当の愛を知らないで育っているし(親もそういう中で育っている)、学校時代は、さんざん対人関係で苦労してるので、こうなるのもやむを得ないとは思うのです。
まわりの目を気にするのも、自我のしくみかなと思います。
ついつい自我をイコール自分だと思いがちだけど、見つめていると(気づきの意識)、心の中にスペースが出来て、心がすごく静かになる瞬間が出てきます。
コメンテーターが静かになっているんですよね。
案外、気づきというのは、身近な感覚なのかもしれないですね。
- 関連記事
-
- やさぐれたコメンテーター(自我)と静かな心 (2021/04/16)
- リアルに感じられるけど、それは現実ではない(投影) (2021/01/17)
- エニアグラムで魂の個性をみつける (2021/09/01)