最も重要なことは、観察すること
意地悪する人への対処方法は、もしかしたらまったく違った次元の解決方法があるのかもしれない。
怒りだけだとしたら、そのときに何がおこるのか、怒りは続くのだろうか。と、クリシュナムルティは問いかけます。
「私は怒るべきではない。」と抑え込む方が、逆に怒りに活力を与え、それは、続いてしまうようです。
やっと、私は正解にたどりついたようです(*^-^*)
この過程が瞑想だとしたら、普通のいわゆる瞑想といわれるものとは、違ったものになるんですね。
20歳の頃、クリシュナムルティ(の本)に出合ったことによって、それまで興味のあった白魔術、タロット等のスピリチュアル的なことから離れることにしました。そして、普通の生活に入っていったわけですが、大きな嵐に巻き込まれたようになってしまい(結婚生活や子育て等で)、いつの間にか、彼の本を読むのをやめてしまっていました。
普通の日常生活で、思考に気づいている。ただ気づいているだけ。
2度目の土星回帰で、自分の原点に戻ってきたようです。
瞑想の役目は、内面的に、したがって外面的にもあらゆる葛藤を完全に消し去ることである。
葛藤を消し去るためには、この基本原理を理解しなければならない。「心理的に、観察者とはじつは観察されるものにほかならない」━
怒りがあるとき、そこに<私>はいない。だが、一瞬後に思考が<私>を作り出し、「私はいま怒った」という。そして「私は怒るべきではない」という考えをもちこむ。だからまず怒りがあって、しかるのちに、怒るべきではない<私>が出てくる。その分裂が葛藤を生むのである。
怒りが湧き上がっても、それを目にとめるものがなく、分裂もないとき、その怒りは花開いてそしてしぼむ。さながら一輪の花のように、それは咲き、そして消え去る。
怒りだけだとしたら、そのときに何がおこるのか、怒りは続くのだろうか。と、クリシュナムルティは問いかけます。
「私は怒るべきではない。」と抑え込む方が、逆に怒りに活力を与え、それは、続いてしまうようです。
やっと、私は正解にたどりついたようです(*^-^*)
この過程が瞑想だとしたら、普通のいわゆる瞑想といわれるものとは、違ったものになるんですね。
瞑想とは何かを見出すにあたって、これが瞑想だとかんがえられているこれまでのいっさいの知識は、その探求の妨げになる。だから心理上の権威からの自由が絶対に必要である。
『生の全体性』より自分の思考に気づくにはどんな精神集中もいらない。気づきにおいては、自分はどの思考が好きかという選択はしない。ただ気づいているだけである。その気づきから留意が生じる。留意にあたっては、自分の注意の起点となるような中心はない。これを理解することはきわめて重要ある。それは瞑想の本質である。
20歳の頃、クリシュナムルティ(の本)に出合ったことによって、それまで興味のあった白魔術、タロット等のスピリチュアル的なことから離れることにしました。そして、普通の生活に入っていったわけですが、大きな嵐に巻き込まれたようになってしまい(結婚生活や子育て等で)、いつの間にか、彼の本を読むのをやめてしまっていました。
普通の日常生活で、思考に気づいている。ただ気づいているだけ。
2度目の土星回帰で、自分の原点に戻ってきたようです。